2020.7.21の記録

あれやこれやと写真のことを深く考えている毎日しんどくて、毎晩深夜にゲームに勤しんでいるわけだが、ふと写真のことを思い出した。なぜこれを撮るのか、という部分を説明したところで仕事ではいつも怪訝そうな顔をされる。なるほど依頼する側からしたらなぜなんて部分は基本どうでもよく、これがよく見えたらそれでいいのだ。自分が考える写真についての部分を少しでも取り入れてみようということは諦めてしばらく経つ。自分の現状はというと、カメラはほとんど肩にかけているような状態で、むしろ写真を撮ってもらう側として会社には従事している。少し撮影から距離を置いてみて、ふとした今日の夕暮れに我に帰る。写真はそもそも表層だけの軽いものではないかと。そこに写る景色なんてものを深く読み解こうとすることに快楽を感じるも、結局は平面に映し出された1枚の紙に過ぎない。軽い関係でいいのだ。だとすると、キャプション(解説)ありきの作品批評なんてものはクソじゃないかと、そんな気がしてしまった。と書き連ねつつも今は新しい本を作るのに必死で作品解説も書いているのだった。


2020.7.5の記録

‪本来撮る(見る)側の人間は一方的に被写体を見ないといけないんだけど、こちらも相手から見られているという体験は、一方的にこちらの都合で撮る(見る)という構図を破壊してしまうという意味でカメラを構える人の消滅を意味するんですね。つまり、一方的な撮り手である自分が消えたというのは、見るという行為が相互に作用して見る見られるという関係になれたということ。それすなわち、お互いにリスペクトがないと成り立たない関係わなけで、それが経験できたのが小田急ラインだったわけで、大前提としてお友達という関係があってこそなんだけど、‬心を許してる許してないとかそういうレベルじゃなくて、「写真」の性質という枠で説明しようとするならこういうことな気がする。友達の写真は友達がいれば誰でも撮れるってよく言われてきたんだけど、ただの思い出写真から次の段階に踏み込むにはここに気付けないといけなくて、‪もう撮らなくなってしまったのは、無意識のうちにそこに気づいてしまったので完結したということ。。。なんかスッキリした。。。プロペラずっと見てると逆回転してるように見えるあの感覚に似てる。‬


2020.6.25の記録

納得いかない作品群をなかったことにしたくてしばらく眠らせていた。このまま未発表というか、習作としてしまっておくのも子供っぽい。実際習作であることには変わりないんだけど。作品を燃やすとか、壊すとか、それをある一種の表現だとする見方もあるけど、今はそれを受け入れることはできない。そんなことはどうも子供染みているような気がする。かと言って、大人になりたくないという思いもだんだん強くなってきた。正直なところあと3年くらいは大人にならなくてもいいのかなと甘えた考えもあるけど、そろそろ受け入れないといけないのかもしれない。昔の作品の良し悪しも全てを受け止めることによって少しずつ自分が大人になってきたということを実感する。できればなりたくない。早く大人になりたくて、ちゃんと20歳になってから吸い始めたタバコ。ちょっと背伸びして飲み始めたお酒。これも全部辞められたら後戻りできるだろうか。多分無理。


2020.6.24の記録

社会に出て仕事を始めてからSNSのアカウントに鍵をかけ始めた人たちの気持ちが少し理解できるようになってきた。いつでもとんでやるという気持ちでアルバイトから勤めてきた職場で今も働いている。まだこのスタンスは貫いているつもりだ。大富豪はただ数字が増えていくのが楽しいだけだという話を聞いたことがある。僕自身は毎日埋まっていくスケジュール帳の予定を見るのが最近の楽しみになってきた。業務量が増えれば増えるほどなんとなく満足した気持ちになってくる。別に仕事をこなすわけでもないのに。メールからチャット、電話といろんなもので連絡を受けるようになったので、通知を逃さないようにApple Watchを買った。写真から逃げるのに毎日ゲームをしていて、プレイ中もつけているとランニングしているときと変わらない心拍数を叩き出した。全力で走っている時と変わらない負荷を心臓にかけている。何でもかんでも数字に捉われるのはよくない。


2020.6.13-15の記録

お酒を飲んだ帰りにタクシーに乗った。個人的にも最近キャッシュレス化しようと思って、電子マネーで代金を支払った。銀行から直接チャージできるのは少し安心感がある。ちゃんと数字が減っている感覚があって、クレジットカードの借金しちゃってる感じが薄れている。アナログなものは好きなんだけど、現金はなるべく触りたくない。コロナの影響とか関係なしに、生々しい感じが少し苦手。ちょっと臭いし。あの独特な匂いは素材そのものの匂いなのか、人の手垢のものなのか分からないし、知りたくもない。タバコも電子に変えてまで吸いたいかと考えるけど、なかなか染み付いた習慣を変えるのは難しい。電子なものに囲まれてそれもなんだか慣れてきた。アナログなものも好きだけど、ここ最近は離れられない。フィルムとかしばらく触っていない。

帰宅してから朝4時くらいまでゲームをした。飲んだ日は大体すぐ眠くなってしまうんだけど、この日はなんだか体調が良かった。濃いお酒を何杯か飲んだせいか、次の日の昼に起きたときに後からダメージが来てしまって、日曜日はほぼ丸一日寝て潰れてしまった。もしかするとゲームの中に居すぎなのかもしれない。

月曜の朝仕事に行くときに財布がないことに気がついた。土曜の夜、タクシーの中に置いてきてしまったらしい。丸一日財布がないことに気がつかなかった。電子マネーでピッでやっておきながら財布そのものは車の中に忘れてきた。さすがにまずいとは思いつつも、現金は一銭も入ってないし、クレジットカード類が盗まれてもなんとかなるし、という変な安心感とそういう感覚になってしまった自分に少しがっかりした。

何か他に書けることを考えているうちに時間が経ってしまった。以上、この日の記録。


2020.6.10の記録

東京を離れて長野の山奥で撮影をした。仕事柄いろんなところで仕事をすることが増えてきた。東京に戻ってくるたびになんだかホッとした気持ちになる。やっぱり拠点を田舎に移して活動するのもいいな、なんてたまに考えることもあるけど、なんだかんだこの街に戻ってくると、東京っていい街だよなとしみじみと感じてしまう。東京といっても新宿のことなんだけど。大学受験に失敗して東京進出が叶わなかった学生の頃は、東京へ出るのに必ず新宿を経由していた。アシスタントをしていた時の師匠の事務所も新宿。何かと新宿に行くことが多くて、僕の中の東京のイメージは新宿になる。引越しの時もいかに新宿に出やすいかが必須条件になっている。かといって、新宿の店を知っているわけでもなんでもない。ただなんとなく、あらゆる人を受け入れてくれる街な気がしていて安心できる。歌舞伎町のあの独特な空気感に対して三丁目の品の高さはきっと伊勢丹が作り上げたものだと信じている。伊勢丹でお買い物できるくらい余裕のある生活に憧れつつも、今の僕は中を素通りすることしかできない嫌な客だ。

高架下をくぐって青梅街道を歩けば高円寺にたどり着く。無駄に時間のあった学生の頃は幕張から高円寺までチャリで通ったこともある。MVの撮影で新宿から吉祥寺まで走り続けたこともあって何かと思い出深い通り。厳密にはチャリの荷台に後ろ向きで乗ってカメラ回してただけだけど、しばらくお尻の腫れが引かなかった。そして、甲州街道を下れば1番お金がなかったときに住んでいた家の方面。金がないのにバイクには乗っていて、電車代を浮かすためというよくわからない理由で甲州街道をよく走っていた。電車代が浮いても結局駐輪場に止めるだけで片道切符代くらいはかかるし、ガソリン代のことを考えたらトントンだったかもしれない。なんとなく甲州街道の雰囲気は苦手だ。首都高の高架線のせいかもしれない。高速道路は走る分には気持ちいいし楽なんだけど、下道でゆっくり移動するのが性に合っている。速く移動するためだけの道というか、移動速度だけじゃなくてあらゆることの時間感覚がものすごく早くなっている気がする。朝東京で目が覚めて、昼間は長野の山奥で撮影して、夜はしっかり東京で眠る。昔じゃ考えられないような時間の使い方。


2020.6.8の記録

学生の時はよく夜に写真を撮っていた。仕事終わりにお使いがてら普段とは違う帰り道を通って、ちょっと遠回りに裏路地に回って目的地まで行った。その通りが真っ暗でそんなことを思い出して、夜撮影の自然光って月明かりだけだとふと思い出した。2年くらい前に街明かりが届かないような北海道の山奥で、月明かりだけで夜を歩くというイベントに参加した。イベントにというか、そのイベントの取材で写真を撮りに行った。真冬の雪山はかなり険しくて、撮影には苦労したんだけど、月明かりが想像以上に明るかったのが印象に残っている。それでも、カメラのセンサーに月明かりはほとんど届かない。ISO感度をガン上げしてもシャッタースピードは稼げなくて、凍てつく極寒の中、三脚を雪が積もった地面に突き刺して撮影をした。それでも撮影は難航して、人間の目はすごいと改めて感じた記憶がある。夜撮影するなら人工光を活かすか、フラッシュ焚いて撮るかのどっちかしか選択肢はなくて、僕は楽だからよくフラッシュ直当てで撮影してた。だから光の読みがまだまだ甘いのかもしれない。写真を1番撮っていた時にちゃんと光を読むことをしなかった。ライブの撮影だって、照明さんのタイミングと演者のタイミングを見ながらシャッターを切っていて、そもそもの基礎がまだまだ出来上がってないのかもしれない。練習しなければ。


2020.6.7の記録

どんな写真を撮る人なのか知らない。そんなことをついこの前言われてしまって、たしかにTwitterのプロフィールに写真をやってると書いているとはいえ、自分でもわかりにくいなぁと思った。逆に仕事で僕が撮る写真をずっとみてくれている人からは、ライト組むより自然光の中で撮った写真の方が君の写真はいきると言ってもらえたこともある。正直めちゃくちゃ嬉しかった。ライトを組む技術がないと言ってしまえばそもそも自然光だって、光を読む力がないと言っているようなもんだけど、実はライトの組み方をよく知らない。いや、バリエーションが少ないと言うか、まだまだ練習しないといけないなと思う。そもそもどんな写真を撮っているのか分からない、どうなりたいのかわからないと言われてしまうと、実は僕もこれだと明確なことはまだ言えない。撮影術を売りしているとどこまで自分の感性を残すか判断に迫られることがある。我を前へ押し出すにはまだ少し早い。とはいえ、仕事を受けるたびに自分を殺し続けていては何も伝わらない。自分のフィルターを通して頼まれたことを形にしていくというのはなかなかシンプルにはいかない。

写真のことしか知らない、そんな人が撮る写真はつまらないと最近はよく考える。そもそも写真のことさえまだわからないことが多い。自分が撮る写真を通して、自分自身が気づけないようなことも気がつけるような気がしていたけど、撮るという行為の前の観察力がまだまだ足りていないのかもしれない。撮影術だけではなくて、それ以前に物事と対峙する姿勢を少し変えたい。見るという行為は見られる行為と同位置にあって、撮って見る前に僕自身も見られているということを忘れてはいけない。見る見られることの間には、お互いへのリスペクトがないことにはベストな関係性は生まれない。それが人であっても静物であっても。

最近、花に興味が湧いてきた。といっても見たところで花の名前はまだ全然わからない。静物なのに生きている植物。何年か前に食虫植物をベランダで育てていたことがある。虫が捕まってるところは見たことがない。捕食されるところを見たくて自分から餌付けをしてみた。無駄に葉っぱを開閉させてしまうとその動作にたくさんのエネルギーを使うみたいで、葉が枯れてしまうらしい。食虫植物も生きるのに必死なわけだ。


2020.6.6の記録

自分のHPのアクセス数を久しぶりに調べてみた。月単位でみると30人前後の人が訪れている。だいたい毎日1人は僕のページに来てくれている計算になる。固定のサイトよりも今はSNSの力が強いわけだし、サイトは閉じてこれまでの自分の実績も、こういう日記も全部SNSにあげていこうかなとも思いつつ、毎日誰かがここを訪れているのであれば、ちょっと更新してみようかと思った。

流入元を見てみると、検索して入ってきてくれる人もいて、自分のページがどんなだったか、たまに検索して自分でアクセスすることもあるので、この内の1人は自分だったりする。ただ、僕はヤフーの検索エンジンを普段使うことはないので、ヤフー検索で入ってきてくれる人は僕以外の誰かになる。ブログは機能していないので、検索して引っかかるとしたら僕の名前くらいだと思う。数字が少ないと余計にどんな人が検索して入ってきたのか気になってしょうがない。ただ、ありがとう。

気が向いたらnoteにこういった日々の記録的なことを書いているんだけど、SNSっていうのはタイムラインさえ眺めていれば自動的に流れてくるもので、こういった個人のサイトはこの住所を知らないとたどり着けない。検索して引っかかるようにSEO対策すればバッチリとかそういうネットの性質の話じゃなくて、僕のこのサイトとSNSの違いは、なんとなく受け身かそうじゃないかってニュアンスの違い。きっとこのあと自分のSNSにリンクを貼るわけだからどこかには流れていくというか、これ読んでくれてる人はそこから来てくれた人だと思うんだけど、一発目はさすがに頼りたい。何者でもない人の日記ほどどうでもよくて、こういう日々の記録みたいなのは閉鎖的なところ方があっている。ネットって時点で全然閉鎖的ではないんだけど、世の中の流れ的に割とこういう固定のページってもう日の目を浴びないというか、そういう感じ。

昨日は仕事終わりにふらっと酒缶を片手に散歩して、帰宅してそのまま床で寝てしまった。だから、こんな早い時間にこのページを更新してる。仕事中も腰痛が酷くて腰から左足にかけてちょっとやばそうな痺れというか冷たい感覚がずっとあって、まずいなぁとか思いながらも硬い床で寝てしまった。もう少し体を労わらないと。そういえば、今年の健康診断はCだった。

2020.6.6 7:58

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